「平和公園」「長崎原爆資料館」そして、3.11に思うこと・・・
1年前のあの巨大地震から1年が経ちました。2011年3月11日に発生した東日本大震災において、多くの方々の尊い命が奪われ、今もなお、行方不明の方々が多数おられます。甚大な被害が生じましたことに、いま改めて心より哀悼の意を表し、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。
1年を前に、テレビ・新聞・ラジオ等で、再び東日本大震災の報道がされる度に、そわそわした落ち着かない気持ちになりました。そして、最近また頻繁に地震が発生していることに、またあのような地震が起こるのではないかと危惧しております。
この1年、色んなことを考え、色んなことに触れました。そして今回の長崎の旅では、地震という自然災害でなく、戦争という人間が起こした悲劇で亡くなった方々の真実にも触れることとなりました。
改めていま、人の命の尊さを実感しています。

「平和祈念像」。この像は、神の愛と仏の慈悲を象徴し、高く掲げた右手は原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は平和を意味し、軽く閉じた目は原爆犠牲者の冥福を祈っているそうです。

「折鶴の塔」。二度とこのような悲劇が起こらないよう、人々の願いがかけられています。

「長崎の鐘 」。被爆地となった浦上には、当時いくつもの軍需工場があり、そこで働いていた学生さんなど、多くの方々が原爆によって亡くなられました。

毎年8月9日「長崎原爆の日」(長崎原爆忌)には、平和祈念像前にて原爆犠牲者慰霊平和祈念式典が開催されます。

「世界平和シンボルゾーン 」。世界各国から贈られた平和を象徴するモニュメントが配置されています。

「平和の泉」

平和公園をあとにして、我々は「長崎原爆資料館」へ向かいました。

実は、ここへは15年前にも来ました。
当初、原爆投下は福岡県・小倉市(現、北九州市)を予定していました。しかし、当日小倉は悪天候に見舞われ、第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきた事も確認されたので、目標を小倉市から第二目標である長崎県長崎市に変更し、午前10時30分頃、小倉市上空を離脱しました。
米軍長崎天候観測機は、長崎上空が好天であるが、徐々に雲量増加しつつあると報告していたが、それからかなりの時間が経過しており、その間に長崎市上空も厚い雲に覆い隠され始めていました。
1945年8月9日10時58分、長崎上空が雲に覆われていた事と、燃料が限界に達していた事もあり、投下を断念して引き返そうとしたその瞬間、本来の投下予定地点より北寄りの地点であったが、雲の切れ間から一瞬だけ眼下に広がる長崎市街が覗いたことを米軍機は確認したのでした。そして、11時02分、原爆は長崎に投下されました。
原爆投下直前に「長崎市民は全員退避せよ」との臨時ニュースが福岡、熊本、佐賀3県のラジオ放送で流れたことも分かっていますが、その臨時ニュースは、「総退避」の叫び声が流れる中、原爆の投下と同時に無変調となりました。また、米軍による事前に投下される長崎市民への原爆投下の事前通知(空からまかれるビラ)も、実際には原爆投下後に投下されたことが多くの証言により実証されています。

「白目をむいて亡くなった母の傍らに呆然と佇む少女」
自分は、その写真の少女が忘れられません。
原爆資料館で触れたすべてのことは、実際にこの世で起こった「真実」なのです。

人の命とは?
「人の気持ちを分かってあげられる人間になって欲しい。」
色んなことで犠牲になられた方々の気持ちを、私たちは決して無駄にすることは出来ません。